昨今、昔から日本刀を見てきた愛好家と、ゲームなどから刀を見に来るようになった刀剣クラスタの若者の刀の価値観が合わない、反発するといったことには、刀というものに触れた(好きになったと言ってもいいかもしれない)『時代背景の相違』が一因なのではないかと考えた。
物語を大事に出来る時勢ではなく、ただひたすらに現実のものを守らねばならなかった人達と。
物語を大事に出来る時勢(つまり平和)になって、心や個人個人の価値観を大事に出来る時代を生きている人達の、
価値観の相違なのではなかろうか。
そんなことを考えたので、時代背景から刀の価値観の変遷を考察してみることにした。
日本美術刀剣保存協会を例にあげて、その点を考察してみる。
この会というものについての成り立ちが、「第二次世界大戦における敗戦」で「現実における武器の廃棄」を求められたことに起因するはず。
以下はあくまで推測だが
『刀は【美術品】だ。作るにはコストが莫大にかかり、強者が権威を示す、もしくは委譲するのにも用いられてきた。武器ではあるが、古来からそれほど武器としての実用はされず、近接戦になった時点で戦としては敗けであり、弓矢などの遠距離のものが主流であったのではなかろうか。……(略)』
といったような『武器というよりも【美術品】なのだ。伝来の【宝】なのだ』と、そのような建前でもって、勝者(この場合GHQ)に武器の放棄を求められたことを説得し、刀を持つものには、『そう(武器ではなく)であれと』と伝え、言わないと残せなかった、守れなかった、返してもらえなかったのではなかろうか。
そうやって「美術刀剣保存」のために、刀を守ってきたのではないだろうか。
【美術品である、保存すべきものである】という話に特化した建前を全面に押し出しての説得をするにあった場合、【使うという側面は切り捨てねばならなかった】のではないだろうか。
前述の考察から考えられる『美術と保存における価値』は、
・古くからある
・伝来品である(特に大名などの名家)
・美術品たる[美しさ(傷がない、造形、などなど]
上記を確固たる指針(価値)としてさだめた場合、
・道具(使うもの)としての側面
・近現代に作られたものの価値
・造形の出来不出来
そういったことに優劣をつけることで品評され、【資産価値】が発生したのではなかろうか。
もとは、【全ての刀を残したかった】のだとしても、敗戦の武器の放棄を求められ、それは出来ず美術品としての側面を押し出さざるを得なかった結果、美術品ではないとされるもの、使うもの、新しいもの価値を認めないという価値観も発生してしまったのではなかろうか。
美術品としての価値観が発生すると、長じて資産価値というものとなりえる。
バブル時代に『投資資産』として購入されるというブームが発生したのではないだろうか。
この時期に買い支えられたおかげで、維持がされ、今がある、刀が残っているともいえる。
価値の重きが【投資資産】としての場合は『手放す事が前提での購入』となる。
また、資産であるため、【美術品として、いいもの】であることが重視がされることが必要になる。
途中ではあるが、今回はここまで。
またつらつらと模索というか考察というか、こうなのだろうか、という考えを書こうと思う。